Yoko Hatano
今自分が受け取っている恩寵は計り知れないものです。
自分が誰であるが、
私がおそらく1番知りたかったその答えを受け取るのを拒否していたのは自分だったということが明るみに出されています。
あまりに恐れの中で自分を確立することばかりを学んできた私は
自分が恐れているものが本当は何であるのかということさえ忘れてしまいました。
なぜそんなに恐れているかということも。
そして、その恐れの欠片は私の世界の随所にちりばめられており、
私はその欠片を恐れるべき本当のものだと信じてそれから逃れようとしてきました。
この終わりのないループに入り込んで一体どれだけ同じ繰り返しを経験しているのだろう。
私は私以外の何か、誰か、どこかに
いつも救いを求めていました。
それらの偶像が私を拾い上げてくれると信じて。
私は無力で生きるに価しない者だと認めて、外の何かに価値を見出そうとばかりしていました。
いつも私は、自分が価値置くものに
なぜこんなに本気になれないんだろうか、と思っていました。
私の踏ん張りのなさ、中途半端に断念してしまうこと、何に対しても長く息がつづかないこと、
それはいわゆる真の自分への信頼が全く欠如した世界を維持しておきたいという私の願いが形になったものに他ならないことが少しずつ見えてきました。
この世界への欲望、欲求は私にとって大きなもので、痛みを感じていながらもそれを手放すことは一筋縄にはいきません。自分がそれらを必要としていることに気付かずに手放すことはさらに大きな痛みとしがみつきを覚えるだけでした。
今、自分自身の中にあって目覚めの道を歩むのに不要なものに気付くことは大きなサインであり、
私は慈悲を持ってそれらをみつめ、充分に
自分に許可をして聖霊に捧げ続けたいと思います。
このような思考を私が持てるようになったのはひとえに
この世界の保証など全くない道、ただ真の自己、聖霊を信じて、
神以外のどんな思考も脇に置き歩み続けてきて下さった先輩方、
その同じ道を共に歩んでくださる心強い兄弟達、
そして、実はいつも片時も私と離れることのない真の自己である聖霊の
導きのお陰でしかありません。私の祈りは慈悲深い聖霊に本当に受け取られ私は答えを受け取っていると感じています。
この4月のリトリートで
自分の内奥へどのような扉が開かれていくのかまったく想像することも出来ませんが、
それは恩寵に包まれた真に素晴らしいものであることは間違いありません。
心からの深い呼びかけを感じられる皆さまとご一緒出来ることを
心から感謝いたします。
Kanae Okamoto
去年の10月のリトリートに参加してから自分の甘さがよくわかった。
Kenta Yoshimoto
Aska Mizuno(Rei)
5月オンラインリトリート、10月リトリートを通して、
こんなにも早く4月のリトリートの開催を迎えられることに
感謝だけでは足りないような光栄な想いを深く感じています。
今まで献身が何かよくわからないまま、自分の自己満足なやり方を通そうとし
間違うことが多々あった中で、痛みを感じることはよくありました。
でも必ずそれは私にとって必要な癒しの機会だと何度も気がつかされました。
献身への猛烈な抵抗や傲慢さも出るには出るけれど、
それを超えて聖霊から差し出されているこの壮大な救済計画が
ありがたくて、ありがたくて、それに関わらせて頂けることは本当に幸せなことだと思うのです。
全体の目覚めのために心も身体も人生も全てお捧げすることが私の真の願いです。それに対して恐れも出ますが、
そこにしか本当の幸せがないことを私の心のどこかが訴えています。 その道を実際に歩み、
自分を神に捧げきっているカースティンとフランシスと過ごす
9日間リトリートは言うまでもなく素晴らしいものだと保証されていると感じます。
そして、マイティコンパニオンたちと共に聖霊の目的のために与えて、与えて、与え続ける道を意志し、
歩み始められたことに心から感謝しています。
鈴木祥子
10月のリトリートから始まった、ドキュメンタリー映画撮影に関わるようになっていった
11月、12月は 本当に猛烈で、凄まじい日々でした。
コーリングがきているのはわかっていて、 わかるよりもむしろ、
明白だったのだけど 呼ばれる方に進むことはとても怖く感じていました。
このコーリングに応えることを先延ばしにしても苦しいだけ 今、飛び込んでみよう。
私はいつも何でも、先延ばしにしがちだ。
もうやめよう。 どうなってもいいや(苦笑)と、全てから手を離して飛び込むことにしました。
目覚めとか、献身とか、心の真の平安を求めていたはずの自分が 実はそんなことよりも、
この世界がうまくいきさえすれば良いと思っていて ほとんどの時間、
求めているのは 神ではなく偶像や形態ばかりだ、ということが露わになり
どんどん ”自分” が崩れ落ちていきながら身を捧げていきました。
実際に、この世界で”私のもの”としていたもの 考え、信念、物、家族、仕事、自分というイメージも 次々放棄し
(放棄させられた、奪われた、と思っていました)
抉り取られるようなキリキリとした感覚が毎日続き、 抉り取られ続けて 12月のある日、
本当に、目の前で起きていることと全く関係なく 落下が起き、崩壊し、号泣し続けました。
しばらくの間は、損失ばかりをみていましたが 1月の半ばを過ぎた頃、2018年は恩寵だったのだ
コーリングに応えて従って参加した12月の映画撮影は、 あれは恩寵だったのだ!
と 嬉しく、あたたかく、ありがたく感じるようになってきたのです。
何一つ奪われてなどいなかったし、 当時は本当に信じていたので 自分はとんでもないことをしているとか
聖霊に従うことを意志すると 恐ろしいことになっていくじゃないか などと思っていたけれど
とんでもなく危険なことや恐ろしいことなど何もなく、
抉り取られたことは、本当に本当に安全で平安なことだったのだと 本当に恩寵だったのだなと
今、嬉しさと、ありがたさと、喜びと安堵で満たされるような感じなのです。
聖霊の導きに従って、聖霊がいて欲しいという場所にいて 聖霊がして欲しいということをして
ただそうしていると、なんだかわからないけれども とても嬉しい、
という安堵感に満たされるのです。 何が起きているかとか、お金がないとかあるとかということに
価値を感じることが薄くなってきているように思います。
聖霊に従って生きることは本当に安全、とカースティンが言っていたけども
私も、自分が実際に歩いてきて、歩き始めて、本当にそう思い始めています。