献身チームからの招待メッセージ

 

 

 

 

 

 Yoko Hatano

今自分が受け取っている恩寵は計り知れないものです。

 

自分が誰であるが、

私がおそらく1番知りたかったその答えを受け取るのを拒否していたのは自分だったということが明るみに出されています。

あまりに恐れの中で自分を確立することばかりを学んできた私は

自分が恐れているものが本当は何であるのかということさえ忘れてしまいました。

なぜそんなに恐れているかということも。

そして、その恐れの欠片は私の世界の随所にちりばめられており、

私はその欠片を恐れるべき本当のものだと信じてそれから逃れようとしてきました。

 

この終わりのないループに入り込んで一体どれだけ同じ繰り返しを経験しているのだろう。

 

私は私以外の何か、誰か、どこかに

いつも救いを求めていました。

それらの偶像が私を拾い上げてくれると信じて。

私は無力で生きるに価しない者だと認めて、外の何かに価値を見出そうとばかりしていました。

 

いつも私は、自分が価値置くものに

なぜこんなに本気になれないんだろうか、と思っていました。

私の踏ん張りのなさ、中途半端に断念してしまうこと、何に対しても長く息がつづかないこと、

それはいわゆる真の自分への信頼が全く欠如した世界を維持しておきたいという私の願いが形になったものに他ならないことが少しずつ見えてきました。

 

この世界への欲望、欲求は私にとって大きなもので、痛みを感じていながらもそれを手放すことは一筋縄にはいきません。自分がそれらを必要としていることに気付かずに手放すことはさらに大きな痛みとしがみつきを覚えるだけでした。

 

今、自分自身の中にあって目覚めの道を歩むのに不要なものに気付くことは大きなサインであり、

私は慈悲を持ってそれらをみつめ、充分に

自分に許可をして聖霊に捧げ続けたいと思います。

 

このような思考を私が持てるようになったのはひとえに

この世界の保証など全くない道、ただ真の自己、聖霊を信じて、

神以外のどんな思考も脇に置き歩み続けてきて下さった先輩方、

その同じ道を共に歩んでくださる心強い兄弟達、

そして、実はいつも片時も私と離れることのない真の自己である聖霊の

導きのお陰でしかありません。私の祈りは慈悲深い聖霊に本当に受け取られ私は答えを受け取っていると感じています。

 

この4月のリトリートで

自分の内奥へどのような扉が開かれていくのかまったく想像することも出来ませんが、

それは恩寵に包まれた真に素晴らしいものであることは間違いありません。

 

心からの深い呼びかけを感じられる皆さまとご一緒出来ることを

心から感謝いたします。

 

 

 

 
Masako Someya
私は、ありのままの自分を出したら絶対に嫌われると思っているので、
いつも防衛してボロが出ないようにしている。
そうすると疲れるので、人と一緒にいるのが苦痛だ。
だから、カースティンさんのビデオクリップの
「イエスが求める具体的な『はたらき』に対してあなたが真に『Yes』と言えば、必ず癒しの体験は起きます」
の中で、まさに言われていたように、安全に家で一人で
テキストを読んだり祈ったり、勉強会の映像を聞いたりして目覚めることができるのなら
どんなに良いかと思っていた。
具体的なはたらき(ファンクション)をやることによって、そしてそこで兄弟達と関わることによって、
そこで出てくるものを見つめて聖霊に捧げていく。
10月のリトリート後、ラファエルさんの映画撮影においてのファンクションで、
私も色々な無意識の中にあったものが露わになった。
映画のためのインタビューに、私は呼ばれなかった。
映画の撮影に招集がかからなかった。
その他にも、色々な場面で「私はやっぱり愛されない。私は絶対に愛されない。」
という自我の泣き叫びを外側の映像に投影しまくり、声を上げて泣いた。
でも、後になって思うとこの泣き叫びをはっきり認めることができたのが、
本当に良かったのだと思う。
撮影に使うレンズを都内の会社で借りて、葉山まで届けるというファンクションもあった。
この時は心がサレンダーしていたのか、それをやらせて頂くという事が嬉しく
てありがたかった。そして葉山の駅前で、レンズを渡してただ帰るつもりだったのだが、
ラファエルさんがわざわざ車から降りて、ハグをしたり私にたくさんの
労いの言葉をかけてくれた。私はもう泣けて仕方が無かった。
私は神を裏切った罪人だと信じているので、愛が来るのは困るのだ。
帰りの電車の中でも涙が止まらなかった。癒やしの涙だった。
ラファエルさんが三崎口での撮影の時に言っていた言葉がとても心に残っている。
「それぞれが完璧に配置されている」
ジーザスの救済計画の中で、私に与えられた役割をやらせて頂きたいと心から思っています。
4月に、神への帰り道を先に歩んで教えて下さる、カースティンさん、フランシスさん、
そして皆様と葉山でリトリートをご一緒できること、感謝でしかありません。

 

 

Kanae Okamoto

 

去年の10月のリトリートに参加してから自分の甘さがよくわかった。

リトリート前にイエスの指示で日本の実践者たちのドキュメンタリー映画を
撮影するためにメキシコのコミュニティーを出てフランスから何の当てもないのに、
のり子さんの家に来たラファエル。
イエスのメッセージを信頼し、自分の全てを捧げている。
彼はいつも祈って、イエスのメッセージを聞いて動いている。
へとへとになりながらも、撮影に全身全霊を傾けている姿を何回か見させていただき、
とても感動し、感謝の気持ちで一杯になった。
私は自分の甘さを痛感した。全くコミットできてなかったということが暴露された。
神に献身するとはどういうことかラファエルから見せて頂いた。
神に全てを捧げ全身全霊、使っていただく。本当に覚悟が必要だと思う。
この世界に足をつっこみながらどっちつかずの状態ではまったくダメなんだ。
まだまだ全身全霊まで捧げる意欲がないのがわかる。
でも、心を開き癒しを受け入れたい。目覚めることを意思したい。
この道を進んでいくことは決まっているのはわかる。
絶対にやめないのもわかる。先に道を進んでいる方々に
助けて頂けることがありがたい。
のりこさん。ラファエルマイティコンパニオンの皆さんに感謝している。
1人では到底無理だ。自分の信念、欲望を、奥の奥まで見て自分の泣き叫びを捧げる。
仮面を脱いでさらす。私に与えられたファンクションをこなすことで出てくる闇を見つめる。
与えられるファンクション、4月のリトリートの準備についても全体のために何が必要か
祈り、尋ねながら、仲間と一つになって私が引き下がり、
イエスの道具になって使って頂きたいと思う。
言うだけでなく、本当にやることを意思します。
祈り、尋ね、聞き、従うを忘れないように常に心がける。
今、与えられている全てに感謝します。
私の目覚めにとって必要なことがすべて与えられている。
ここ何か月かで沢山、起こっている奇跡。イエスは本気だというのがわかる。
鳥肌ものだ。最初は疑心暗鬼だったが、私でも信じる。
このリトリートに参加することで加速することは間違いはないと思います。
この世界からは決して得られない本当の自由 本当の幸せを求めている方、参加してみませんか。

 

 

 

 

 

 

 

Kenta Yoshimoto

最近、「死ぬときはこうやって死んでいくんかな」と感じることがあったのですが、
そのとき、自分の世界の内容だと思っていたことは、
死ぬときには何ひとつたよりにならないんだと感じました。
これらのなかに本当のこと、たしかなことはひとつもない。
それを一生懸命たしかなものにしようと奮闘してたんだな、と。
でも、これら具体的なすべてのものごとをとおして、本当のことをみせてもらうことはできる。
これらを道具として使ってもらうことはできる。
本当のことを経験させてもらうための道具として。
本当のことを思い出すための道具として。
本当のこと、つまり分離とは幻想で、本当はひとつだけであって、神=愛しかないということ。
でもそれを受け入れるためには
自分の世界だと思っていた具体的なものごとひとつひとつが、
何ひとつたよりにならないんだということを経験で知っていく必要があります。
去年の10月のカースティンのリトリート以降、
11月〜1月にかけてラファエルの映画撮影に関わったりしながら、それを教えられてきたのかもしれません。
この道のずっと先を歩いてくれているカースティンやフランシスを前にすると、
自分が自分を維持するためにこうだと思っている世界のウソ度が暴露されるので、
きついと感じることのほうが多いかもしれません。
しかも自分はそのウソの世界しか知らないと信じてるので、
未知にたいする恐怖みたいなのも襲ってくるかもしれません。
でももう、不毛なウソは終わりにしたいので、
飛び込んでいきたいと思っています。
同じように感じている人がいれば、ぜひごいっしょに参加しましょう。

 

 

 

 

Aska Mizuno(Rei)

 

5月オンラインリトリート、10月リトリートを通して、

こんなにも早く4月のリトリートの開催を迎えられることに

感謝だけでは足りないような光栄な想いを深く感じています。

 

今まで献身が何かよくわからないまま、自分の自己満足なやり方を通そうとし

間違うことが多々あった中で、痛みを感じることはよくありました。 

でも必ずそれは私にとって必要な癒しの機会だと何度も気がつかされました。

 

献身への猛烈な抵抗や傲慢さも出るには出るけれど、 

それを超えて聖霊から差し出されているこの壮大な救済計画が

ありがたくて、ありがたくて、それに関わらせて頂けることは本当に幸せなことだと思うのです。

 

全体の目覚めのために心も身体も人生も全てお捧げすることが私の真の願いです。それに対して恐れも出ますが、

そこにしか本当の幸せがないことを私の心のどこかが訴えています。 その道を実際に歩み、

自分を神に捧げきっているカースティンとフランシスと過ごす

9日間リトリートは言うまでもなく素晴らしいものだと保証されていると感じます。

 

そして、マイティコンパニオンたちと共に聖霊の目的のために与えて、与えて、与え続ける道を意志し、

歩み始められたことに心から感謝しています。

 

 

 

鈴木祥子

 

10月のリトリートから始まった、ドキュメンタリー映画撮影に関わるようになっていった

11月、12月は 本当に猛烈で、凄まじい日々でした。

コーリングがきているのはわかっていて、 わかるよりもむしろ、

明白だったのだけど 呼ばれる方に進むことはとても怖く感じていました。

 

このコーリングに応えることを先延ばしにしても苦しいだけ 今、飛び込んでみよう。

私はいつも何でも、先延ばしにしがちだ。 

もうやめよう。 どうなってもいいや(苦笑)と、全てから手を離して飛び込むことにしました。 

 

目覚めとか、献身とか、心の真の平安を求めていたはずの自分が 実はそんなことよりも、

この世界がうまくいきさえすれば良いと思っていて ほとんどの時間、

求めているのは 神ではなく偶像や形態ばかりだ、ということが露わになり

どんどん ”自分” が崩れ落ちていきながら身を捧げていきました。

 

実際に、この世界で”私のもの”としていたもの 考え、信念、物、家族、仕事、自分というイメージも 次々放棄し

(放棄させられた、奪われた、と思っていました)

 抉り取られるようなキリキリとした感覚が毎日続き、 抉り取られ続けて 12月のある日、

本当に、目の前で起きていることと全く関係なく 落下が起き、崩壊し、号泣し続けました。 

 

しばらくの間は、損失ばかりをみていましたが 1月の半ばを過ぎた頃、2018年は恩寵だったのだ

コーリングに応えて従って参加した12月の映画撮影は、 あれは恩寵だったのだ! 

と 嬉しく、あたたかく、ありがたく感じるようになってきたのです。

 

何一つ奪われてなどいなかったし、 当時は本当に信じていたので 自分はとんでもないことをしているとか 

聖霊に従うことを意志すると 恐ろしいことになっていくじゃないか などと思っていたけれど

とんでもなく危険なことや恐ろしいことなど何もなく、

抉り取られたことは、本当に本当に安全で平安なことだったのだと 本当に恩寵だったのだなと

 

今、嬉しさと、ありがたさと、喜びと安堵で満たされるような感じなのです。

聖霊の導きに従って、聖霊がいて欲しいという場所にいて 聖霊がして欲しいということをして

ただそうしていると、なんだかわからないけれども とても嬉しい、 

という安堵感に満たされるのです。 何が起きているかとか、お金がないとかあるとかということに

価値を感じることが薄くなってきているように思います。

 

聖霊に従って生きることは本当に安全、とカースティンが言っていたけども

私も、自分が実際に歩いてきて、歩き始めて、本当にそう思い始めています。